工業製品における死蔵と動態保存は似て非なるものである。時が止まっていたかのような、とはよく使われる表現だが、それが暮らしに寄り添うクルマとなると話は全く別だ。
可愛らしさを忘れていない
雨上がりの午後。湿ったアスファルトの上に、一台の小さなクルマがぽつんと佇んでいた。それは、2004年式の日産マーチ 12c 70th-Ⅱ。
この“マーチ”という名前は、1982年に初代が誕生して以来、ずっと日本のコンパクトカーのスタンダードであり続けた存在だ。
丸みを帯びたフォルムと扱いやすいサイズ感、そして“庶民の足”としての確かな性能。多くの人がこの車に初めての免許を託し、日々の買い物や通勤、家族との暮らしをともに過ごした。
目の前の個体は、その3代目。いわゆるK12型と呼ばれるモデルで、デザインも中身も大きく進化を遂げた世代だ。
ヨーロッパの風を感じさせる柔らかなスタイリングと、先進的だったCVTの導入。ちょっとだけ背伸びした、でもやっぱり“マーチらしい”可愛らしさを忘れていない、そんな時代の一台。
そして、驚くべきはその走行距離。20年の歳月を経ても、まだ700kmしか走っていない。
塗装は艶を保ち、ヘッドライトは曇り一つない。まるで時が止まっていたかのようなコンディションだ。
ドアを開けてシートに腰を下ろすと、ふんわりと立ち上がる布の匂いが鼻をくすぐる。
キーを回せば、1.2リッター直列4気筒エンジンが、ためらいもなく静かに始動する。
新車の記憶が、このクルマにはまだ色濃く残っていた。
静けさの中にある、走りの輪郭
そっとアクセルを踏み込むと、CVTがなめらかにつながり、音もなく速度が伸びていく。重さわずか900kg台の車体は、濡れた路面の上でも軽やかに進んでいく。
ステアリングは軽く、それでいて芯がある。足まわりはしなやかで、過剰に硬くもなく、頼りなさもない。まさに“ちょうどいい”。
マーチという車がずっと追い求めてきた「日常に寄り添う走り」が、ここにある。
思えば、初代マーチが誕生した1980年代、日本はまだ“夢を見られる時代”だった。小さなクルマに込められたのは、生活の希望と、少しだけの遊び心。
そこから二代目、三代目と進化する中でも、マーチはずっと“庶民の味方”としての立ち位置を守り続けた。
2004年という年は、自動車が次の世代へと移り変わりつつあった時代。
CVT、キーレス、衝突安全性といった言葉が一般的になりはじめた頃だ。この70th-Ⅱは、日産創立70周年を記念した特別仕様車。内外装に品の良いアクセントが加えられ、マーチという大衆車の中に、ほんのりと“特別”が香る仕立てになっている。
走っていると、不思議と気持ちが穏やかになる。このクルマは決して速くないし、豪華でもない。
けれど、まっすぐ走って、ちゃんと止まって、曲がる。その一つひとつの動きが、優しさに包まれている。
今のクルマたちが時に“多すぎる”情報と装備を背負っているのに対して、このマーチは“ちょうどいい”を忘れていない。
積み重ねた時間が生み出す、静かな説得力
走行を終えて、しばらくそのまま車内に身を沈めた。雨が止んだばかりの景色の中で、このマーチがたどってきた20年に思いを巡らせる。
700kmという数字は、単なる記録ではない。それは、この車が「走らなかった」のではなく、「誰かに大切にされた」証でもある。
車庫の中で埃を避け、季節ごとにエンジンをかけ、時には軽く走らせながら、その存在を丁寧に守られてきたのだろう。
コンパクトカーというと、どこか使い捨てのような印象を抱かれがちだ。けれど、このマーチを見ればわかる。
クルマは、たとえ小さくても、大切にされれば生き続ける。心ある手に渡れば、その価値は何倍にも膨らんでいく。
初代マーチが登場してから40年以上。たくさんの人の暮らしに寄り添い、時に家族の一員として迎えられてきたこの車種は、今や日本の小型車史の中でも特別な存在となった。
この個体は、その長い歴史の中でも、特に貴重な一台だろう。ただの保存車ではない。未完成のまま時を止めた、過去と未来をつなぐマーチ。
このクルマを次に迎える誰かが、どんな日々を共に過ごすのか。そう思いながら、そっとドアを閉めた。
雨上がりの空に、マーチのボディが静かに光っていた。
SPEC
日産マーチ 12c 70th-Ⅱ
- 年式
- 2004年式
- 全長
- 3695mm
- 全幅
- 1660mm
- 全高
- 1525mm
- ホイールベース
- 2430mm
- 車重
- 930kg
- パワートレイン
- 1.2リッター直列4気筒
- トランスミッション
- 4速AT
- エンジン最高出力
- 90ps/5600rpm
- エンジン最大トルク
- 121Nm/4000rpm
- タイヤ(前)
- 165/70R14
- タイヤ(後)
- 165/70R14
上野太朗 Taro Ueno
幼少から車漬け。ミニカー、車ゲーム、車雑誌しか買ってもらえなかった男の末路は、やっぱり車。今、買って買って買ってます。エンジンとかサスとか機構も大事だけれど、納車までの眠れない夜とか、乗ってる自分をこう見られたいとか、買ったからには田舎に錦を飾りにいきたいとか、そんなのも含めて、車趣味だと思います。凝り固まった思想を捨てたら、窓越しの世界がもっと鮮やかになりました。