刺激を求める若さではなく、振る舞いを選べる大人の余裕。モータースポーツと紳士の国で磨かれたそのV8は、ドライバーを楽しませる術を知っている。
意外な落ち着き
エンジンをかけ、ふと思った。「これ、3リッターだったっけ?」
あの勇ましい、いや、勇ましすぎるほどの5リッターV8サウンドを思い浮かべながら乗り込んだ。過去のFタイプを何度も経験してきた身からすれば、同じエンジンとは思えないこの落ち着きは意外だった。
あの、地を揺らすような勇ましい咆哮はどこへ行ったのか。しかし、その答えは少し後にやってきた。
ダイナミックモードに切り替え、ストレートでアクセルを深く踏み込んだ瞬間、クルマが豹変する。エグゾーストバルブが開き、低く、濃密なサウンドが一気に広がる。5リッターV8の本性が、ようやく顔を出した。
確かに、前期型の方が音は派手で、加速の立ち上がりにも荒々しさがあった。それに比べれば、この後期型はずいぶんとマイルドだ。
最初はそのマイルドさに拍子抜けしたのも事実。だが、これは単なる演出の削減ではない。
むしろ、「スポーツカーとしてのもうひとつの正解」が、ここにあるように感じられた。
TPOをわきまえて
かつてのFタイプV8は、その存在を音で誇っていた。
エンジンをかけた瞬間に、周囲の空気が変わる。それが魅力でもあったが、同時に「日常では少し疲れる」と思うこともあった。
それがこの後期型では、以前のような誇張が一歩引いたように感じられた。
アイドリングは穏やかに、回転上昇もスムーズに。エグゾーストバルブの開閉タイミングもより慎重に制御され、すべてが過不足のないバランスに仕上がっている。
その変化をどう捉えるかは人それぞれだ。「物足りない」と感じる人もいるかもしれない。
だが少なくとも、これは確実に「大人が乗れるスポーツカー」になった。
乗りやすくなったぶん、使えるシーンは格段に広がる。
街中や住宅街では呼吸を潜め、郊外のワインディングに差し掛かれば、排気バルブが開き、控えていた咆哮が解き放たれる。
踏めば吠えるが、踏まなければ黙っている。
かつてのように、常に全開である必要はもうない。
そうしたTPOに応じた振る舞いを手に入れた今、このV8はようやく「大人になった」と言えるのかもしれない。
そしてその性格に、ボディカラーのゴールドが絶妙にマッチしていた。
この淡いゴールドは、誰もが選ぶ黒や白とは違う。定番ではない色を、さりげなく着こなすような、そんな洒落た選び方。
赤いレザーとの組み合わせもまた、目の肥えた大人の装いそのものだ。その対比が、この個体をより魅力的に見せていた。
楽しませ方を知っている
Fタイプの魅力は、走り込んでからではなく、乗ってすぐにやってくる。
ジャガーは、運転をどう楽しませるかを本能的に理解している。
ステアリングを握った瞬間、ペダルに足を乗せた瞬間、すでに“楽しい”が始まっている。
この感覚は、たとえばポルシェのような、時間をかけて本質を見せてくるタイプのスポーツカーとは対照的だ。ポルシェの楽しさは、乗り込むほどに理解が深まり、やがて愛着が湧いてくる類のもの。
一方このジャガーは、最初から心を掴みにくる。だがそれは、決して軽薄な演出ではない。
ステアリングの手応え、着座姿勢のタイトさ、アクセルのわかりやすいレスポンス。すべてが直感的で、身体が自然に反応する。
エンジンの存在を感じつつも、それに振り回されることはない。距離感の取り方がちょうどいい。
まるで、初めて会ったのに昔からの友人のような、そんな安心感がある。
モータースポーツの土壌が深いイギリスでは、スポーツカーとは「速さ」よりも「感覚」を重んじる文化がある。
そしてジャガーは、そんな文化の中で“ドライバーをどう楽しませるか”ということを、長く考え続けてきたブランドでもある。
このFタイプにも、その血は確かに流れている。
「人を“ノセる”のがうまい」
このクルマにもっともふさわしい言葉だと思う。
ノスタルジーではなく
Fタイプ 75──その名が示すのは、ジャガー創業75周年を記念した、節目のモデルであるということだ。
多くのブランドが過去の名車にオマージュを捧げる中で、このクルマは“終わり”よりも“完成”を思わせる仕上がりを見せていた。
確かに、これがジャガー最後のエンジンスポーツになる可能性は高い。
だがこのクルマは、そうしたノスタルジーに依存せず、あくまで「今、乗って気持ちいいクルマ」として成り立っている。
速さを競わず、音で威圧せず、美しさをまとい、扱いやすさと非日常性を両立させる。
そのバランス感覚にこそ、ジャガーというブランドの哲学が宿っている。
そんなスポーツカーは、意外と少ない。このFタイプ 75は、その希少な答えのひとつだと思う。
そうでなくとも、クルマという文化そのものが電動化という転換点を迎え、大排気量エンジンは確実に姿を消しつつある。
ジャガーも例外ではなく、Fタイプはすでに生産を終え、今後は完全EVブランドへ移行する。
そんな時代に、5リッターV8を味わえる機会そのものが、すでに貴重なのだ。
クラシックになる未来を待つよりも、いまのうちに味わうべき一台として。
SPEC
ジャガー・Fタイプ 75 P450 クーペ
- 年式
- 2022年式
- 全長
- 4,475mm
- 全幅
- 1,925mm
- 全高
- 約1,310mm
- ホイールベース
- 2,620mm
- 車重
- 1,680kg
- パワートレイン
- 5.0リッターV型8気筒 スーパーチャージャー
- トランスミッション
- 8速AT
- エンジン最高出力
- 450ps / 6,000rpm
- エンジン最大トルク
- 580Nm / 2,500–5,000rpm
河野浩之 Hiroyuki Kono
18歳で免許を取ったその日から、好奇心と探究心のおもむくままに車を次々と乗り継いできた。あらゆる立場の車に乗ってきたからこそわかる、その奥深さ。どんな車にも、それを選んだ理由があり、「この1台のために頑張れる」と思える瞬間が確かにあった。車を心のサプリメントに──そんな思いを掲げ、RESENSEを創業。性能だけでは語り尽くせない、車という文化や歴史を紐解き、物語として未来へつなげていきたい。