クルマの機構どうこうを長ったらしく語るより、座った時にこのクルマから見える景色がどう映るのかを語るのも悪くない。そんなクルマの選び方をすることもある種の贅沢だ。
時間の層が積み重なっている
雨が上がったばかりの路面は、まだところどころに水たまりを残していた。
空は一面のグレーを脱ぎ捨てて、薄い光を地面へ落とし始めている。そんな空気の中、メルセデス・ベンツCLK350カブリオレに乗り込んだ。
ドアを開けると、本革シートのしっとりとした香りと、わずかに湿った空気が混ざり合う。14年という歳月を経た車内には、時間の層が積み重なっているような深みがあった。
エンジンに火を入れると、V6が控えめに、しかし確かな存在感をもって目を覚ます。
雨上がりの空に、幌を開ける勇気は少しだけ必要だった。
けれど、次の一滴が落ちる気配はもうどこにもなかった。そっとスイッチを押すと、屋根が優雅な所作で後方へと折りたたまれていく。
しっとりとしたアスファルトの上をゆっくりと走り出す。タイヤが水を押しのける音が、V6の低い鼓動と重なる。
誰もいない道、濡れた木々、空気に漂う雨の残り香。そんな景色に、このクルマは驚くほどよく似合っていた。
このクルマは派手ではない。でも、控えめななかに確かな哲学を感じる。それはまるで、言葉少なでも心に残る人のような存在感。ラグジュアリーとは、きっとこういう空気のことを言うのだろう。
ただ乗り手の呼吸に寄り添う
アクセルを静かに踏み込む。濡れた路面に注意を払いつつも、クルマは不安ひとつなく前へと進む。
V6エンジンは、どこまでも自然体だ。過度に主張するでもなく、ただ乗り手の呼吸に寄り添うように回転を重ねていく。
3.5リッターの自然吸気は、今や希少な存在となった。しかしそのフィーリングは、ターボや電動では再現できない「ぬくもり」を持っている。
加速は鋭くはない。でも、確実に、深く、じわじわと体を前に押し出してくれる。
7速ATの変速は見事というほかない。濡れた路面でギアが切り替わる瞬間すら、まるで水の上を滑るように滑らかだ。
エンジンとミッションが、ひとつの生き物のように協調している。
ときおりワイパーを動かしたくなるような、微細な霧がフロントガラスに残る。けれど、そんな曖昧な視界すら、このクルマの静けさと溶け合って、詩のように美しい。
このクルマで走る時間は、何かの“移動”ではない。もっと根源的な、たとえば「心を整える」ような行為に近い。そう感じた瞬間、速度計の針の位置など、どうでもよくなってくる。
車内は安心感に包まれている
帰路、空はほんの少しだけ明るくなった。濡れた幌は開けぬまま、そのままクーペスタイルで走る。雨粒を散らすサイドウィンドウ越しに見える景色は、どこか映画のワンシーンのようだった。
2006年。このCLKが生まれたのは、もうずいぶん前のことだ。
けれど、今こうして走ってみると、その時間の厚みにこそ、このクルマの価値があるように思えてくる。
現代のクルマは、すべてが「効率」と「安全」に寄りすぎて、心の余白を削ってしまった気がする。
だがこのCLKは違う。速度も、情報も、装備も、少し物足りないくらいがちょうどいい。そう思わせてくれる余裕が、ここにはある。
幌を閉じていても、音は穏やかで、車内は安心感に包まれている。外の風景と遮断されることで、むしろこのクルマの中だけが特別な“時間の個室”になる。その静けさが、今の自分にはとても心地よかった。
雨上がりの余韻のなか、しっとりとした空気を胸いっぱいに吸い込む。そして、このクルマの持つ“静けさの力”にあらためて気づく。
風を切る爽快感もいい。でも、こんなふうに濡れた世界の中で、ひっそりとエンジンを響かせるカブリオレもまた、実にいい。
SPEC
メルセデス・ベンツCLK350カブリオレ
- 年式
- 2006年式
- 全長
- 4660mm
- 全幅
- 1740mm
- 全高
- 1415mm
- ホイールベース
- 2715mm
- 車重
- 1750kg
- パワートレイン
- 3.5リッターV型6気筒
- トランスミッション
- 7速AT
- エンジン最高出力
- 272ps/6000rpm
- エンジン最大トルク
- 350Nm/2400~5000rpm
- タイヤ(前)
- 225/45R17
- タイヤ(後)
- 245/40R17
上野太朗 Taro Ueno
幼少から車漬け。ミニカー、車ゲーム、車雑誌しか買ってもらえなかった男の末路は、やっぱり車。今、買って買って買ってます。エンジンとかサスとか機構も大事だけれど、納車までの眠れない夜とか、乗ってる自分をこう見られたいとか、買ったからには田舎に錦を飾りにいきたいとか、そんなのも含めて、車趣味だと思います。凝り固まった思想を捨てたら、窓越しの世界がもっと鮮やかになりました。