アバルト695トリビュート131ラリー(FF/5MT)不便を愛する、最後の蠍

便利も、静かさも、もう十分。だからこそ、いま必要なのは“操る楽しさ”の密度だ。かわいい顔をして、毒を持つ。アバルト695トリビュート131ラリーは、そんな一台だ。

便利も、静かさも、もう十分。だからこそ、いま必要なのは“操る楽しさ”の密度だ。かわいい顔をして、毒を持つ。アバルト695トリビュート131ラリーは、そんな一台だ。

不自由さはむしろご褒美

アバルト 695 トリビュート 131 ラリーは、見た目は可愛らしくても、乗ればその印象が一変する。全長3.7mというコンパクトなボディに180馬力のターボエンジンと5速MT。都市での機動力を期待すれば、たちまち裏切られる。

交通量の多い道路ではMTの操作は面倒だし、意外と小回りが効かない。だが、それがいい。最小回転半径で済まそうとせず、自分の身体で動かす感覚を楽しむ。思い通りにいかないハンドリングも含めて、乗りこなすという感覚が、日常を少しだけ特別に変えてくれる。

たとえば、今回試乗した京都のような入り組んだ街を走るとき。普通のクルマならストレスになるような細道も、この695ならあえて通ってみたくなる。操作の一つひとつに意識が宿る。半クラのタイミング、ハンドルの切り返し、段差の抜け方。そのどれもが自動化されていないからこそ、愛着が湧く。

コスパだのタイパだのが求められる現代で、このクルマはまるで逆だ。すべてが自動で最適化されていく時代に、あえて不便を受け入れる。これこそが、アバルト695という贅沢の本質だ。

アバルト695トリビュート131ラリー(FF/5MT)不便を愛する、最後の蠍

最後かもしれない、その仕上げの濃さ

この695トリビュート131ラリーは、WRCで活躍した伝説的モデル「フィアット131アバルト・ラリー」へのオマージュとして登場した特別仕様車だ。

2023年に登場し、日本にはわずか200台のみが導入されたこのモデルは、695シリーズとして“最後のモデル”と噂される存在であり、見た目も中身もやりきった一台だ。

ボディは専用2トーンカラーのブルー×ブラックで彩られ、ゴールドラインが走る。レコードモンツァマフラーやブラック仕上げのブレンボキャリパーなど、装備にも抜かりはない。

左右非対称のリアスポイラーは角度調整が可能で、見た目以上に本格的な空力パーツ。ダウンフォースの増加による高速域での安定性もさることながら、この“無駄に本気”な装備が、むしろこのクルマの精神性を物語っている。

アバルト695トリビュート131ラリー(FF/5MT)不便を愛する、最後の蠍

インテリアも特別だ。シートの背面には「131 Rally」の刺繍が入り、イエローのステッチがコクピット全体を引き締める。ステアリングはスエード仕立てで、握った瞬間にこれは普通じゃないと分かる。

演出としての特別感ではなく、“走りを楽しむための道具”としての質感がきちんと備わっている。

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個体差が激しいからこそ

アバルトを知る人ならわかるはずだ——個体差が激しい、ということを。イタリア車特有の“ムラ”がそのままキャラクターになるブランド。すべてがピタリと整った一台もあれば、どこか不機嫌な個体もある。それもまた、魅力の一部だ。

この695は、その中でも“当たり”だった。0.6万kmという走行距離にして、シャシーや足まわりの状態は良好。内装の質感も保たれており、ビビリ音や樹脂パーツの軋みも極めて少ない。こうしたコンディションのクルマに出会えることも、アバルトを選ぶ一つの楽しみだ。

日本限定200台のうちの1台に“当たり”を引く——それは単なる偶然ではなく、縁や巡り合わせに近い。中古車という枠を超えた出会いが、ここにはある。

アバルト695トリビュート131ラリー(FF/5MT)不便を愛する、最後の蠍

スイッチひとつで、毒がまわる

アバルト695には、走行モードを切り替える「スコーピオンモード」が用意されている。このモードこそが、普段使いから一転して、走るためのマシンへとこのクルマを変貌させる“蠍の毒”だ。

まず、音が違う。レコードモンツァマフラーから放たれる排気音は、ボタン一つで咆哮へと変化する。ONにした瞬間、音量だけでなく音質も変わる。

そして、この変化は音だけにとどまらない。アクセルレスポンスが鋭くなり、エンジンが「もっと回せ、まだ上があるぞ」と語りかけてくるようだ。低回転域でのトルクの細さも、むしろその高回転志向を支える要素として機能している。

そうした走らせ方が、この695というクルマの素性をよく表している。意図した通りの回転数でつなぐと、車体全体がピタリと整う。この「もっと回せ」という感覚は、イタリア車に見られる高回転の楽しさを、コンパクトなボディに凝縮したようでもある。

驚かされるのは、これだけの変化を、たった1.4リッターの小排気量エンジンでやってのけていることだ。音にしろ、反応にしろ、スコーピオンモードに切り替えた瞬間に世界がガラリと変わる。排気量の大きなクルマですら、ここまで明確な変化を感じさせるものは少ない。このクルマは、スイッチひとつでキャラクターが変わる面白さを体感できる、貴重な存在だ。

アバルト695トリビュート131ラリー(FF/5MT)不便を愛する、最後の蠍

便利になりすぎた時代に

若い世代がマニュアル車を敬遠するのは、難しそうだからではなく、運転そのものの楽しさに出会えていないからではないか。そう感じさせる体験が、このクルマにはある。

この5速MTは、単なるトランスミッションではない。クラッチのミート、アクセルの踏み込み、シフトのタイミング。そのすべてが一つの動作として繋がり、クルマを動かしているという実感に変わる。

現代のクルマは、快適で、静かで、安全だ。だが、その結果として、人が動かしている感覚が薄れてきている。アバルト 695は、その逆を行く。操作のすべてが、自分の身体の延長になっていく——そんな没入感が、ここにはある。

500〜600万円という価格は、単なる移動手段として考えれば確かに高い。だがそれは、クルマを動かす体験そのもの、に価値を見出す人のための額面だ。便利さや合理性ではなく、操る歓びの密度で価値を測るなら、この695は今の時代における最高に不便な贅沢品なのかもしれない。

その“毒”の味を知ったら、もう後戻りはできない。

アバルト695トリビュート131ラリー(FF/5MT)不便を愛する、最後の蠍

SPEC

アバルト695トリビュート131ラリー

年式
2023年式
全長
3660mm
全幅
1625mm
全高
1505mm
ホイールベース
2300mm
車重
1110kg
パワートレイン
1.4リッター直列4気筒ターボ
トランスミッション
5速MT
エンジン最高出力
180ps/5500rpm
エンジン最大トルク
250Nm/3000rpm
  • 浦井正人 Masato Urai

    自動車販売の最前線に身を置き続けて約20年。触れてきた車も、向き合ってきたお客様も、数えきれないほど。そうした経験の積み重ねが、自分の中に車を見るまなざしを育て、向き合い方を豊かなものにしてくれた。ジャーナリストでも評論家でもない、ユーザーにもっとも近い立場だからこそ語れること。車とユーザーの両方に寄り添い続けてきた者として、そして一人の車好きとして、言葉にして届けたい。

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