かつて英国の空を救った名機を思わせるレイス。ロールス・ロイスの威厳の奥に、驚くほどパーソナルな魅力を宿す、触れた者の景色を変える一台だ。
V12エンジンこそが
私にとって、ロールス・ロイスの一番の萌えポイントはエンジンである。
雲の上を進むような滑らかな乗り心地でも、上質を極めた世界最高峰のしつらえでもなく、他のクルマにはない圧倒的な余裕を湛えた大排気量のエンジン。
自動車だけでなく“のりもの”全般に惹かれる人間にとって、「ロールス・ロイス」という名前は、世界中の誰もが認める高級車であると同時に、航空機の姿も思い起こさせる。
第二次大戦期のイギリス主力戦闘機スピットファイアに搭載された、ロールス・ロイス製マーリンエンジンはあまりにも有名だ。そして現在も、航空機エンジンを手がけるロールス・ロイス plcは、世界のトップメーカーとして存在感を保ち続けている。
もちろん、いま自動車を製造・販売しているロールス・ロイス・モーター・カーズとは、まったくの別会社である。自動車部門はBMW傘下にあり、このレイスに搭載されているエンジンもBMWのV12を基礎にしている。
それでも、レイスの前に立つと、どうしても空の機体が脳裏にちらつく。長いノーズやファストバックのシルエット、そしてマーリンと同じV12エンジンが、どこかスピットファイアを思い起こさせるのだ。
名機を思い起こさせるもの
重たいコーチドアを開き、静謐という言葉を絵に描いたような室内へと身を沈める。緊張感を抱いたままハンドルに手を添えると、すぐに気づく──「前が見えない」。
私の背が低いせいもあるのかもしれないが、ボンネットはどこまでも遠く、左右の盛り上がりは地表の輪郭を覆い隠す。交差点で鼻先をどれほど出すべきか、しばし迷う。
当時のレシプロ戦闘機──とりわけ長いノーズを持つ水冷エンジン機の前方視界も、きっとこうした感覚だったのでは、と想像が広がる。もちろん戦闘機に乗った経験などないが、スピットファイアのキャノピー越しも、もしかすると似たような眺めだったのかもしれない。
長いノーズに加え、大胆なクーペラインもスピットファイアのファストバック型キャノピーを思わせる。ロールス・ロイスと聞いて思い浮かべる直線的なセダンとは対照的に、レイスは後半が鋭く絞られ、ガラス面が滑るようにファストバックへつながっていく。
それでも、ハンドルを切れば巨大な車体がスッと動き出す。視界の癖を理解し、鼻先の長さを身体が覚えていくと、次第に“乗る”のではなく“操る”感覚が芽生えてくる。
このシルエットはレイスというモデルの本質──「ロールス・ロイスの中で、もっともドライバーズカー」 という性格を端的に表している。
LOWで感じる鼓動
レイスのV12ツインターボは、BMWのN74型を基礎にしたものだが、ロールス専用のチューニングが徹底されている。
600ps超のエンジンであるにもかかわらず、通常モードでは「回転している気配さえ消す」設計になっており、わずかなアクセル開度で2.4トン超の車体がすべるように進む。
が、ここで「LOW」の出番だ。
シフトレバーのスイッチを押すと変速ポイントがわずかに上がり、普段は沈黙を守るV12がほんの少しだけ姿を見せる。完璧に制御された紳士が、ふと気を緩めた瞬間にだけ見せる本来の一面──そんな“素の息づかい”がかすかに立ち上がる。
もちろん、航空機のエンジンとは大きさも出力も何もかも違うし、レイスのV12はその存在を感じさせないよう徹底的に仕立てられている。それでも、「LOW」を使うと、同じ“ロールス・ロイス”の名を持つV12の鼓動を、手のひらで感じ取れるような気がする。
補足として触れておくと、現代の自動車メーカーとしてのロールス・ロイスは、航空エンジンメーカーとは完全に別会社であり、技術的な血脈も共有していない。先にも述べた通りレイスのV12はBMWベースで、マーリンエンジンの系譜とは無関係である。
それにもかかわらず、実際に乗ることはおろか、目にすることさえ難しいイギリスの名機とつい重ねてしまい、どうしようもなくロマンを感じてしまうのだ。
威厳を保ちながらも
ロールス・ロイス。その名を前にして、多くを語る必要はない。
乗り心地も、伝統的な造形も、仕立ての細部にいたるまで、世界最高峰と呼ばれる理由は、走り出してすぐに理解できる。高額な価格すら、この体験を前にすると自然なものに感じられる。
だが、レイスにはそれだけでは語れない魅力がある。
ロールス・ロイスの静けさと品位をそのままに、ハンドルを握る者だけが味わえる“密度の高い時間”がある。このクーペは、ロールス・ロイスにもドライバーズカーという領域が確かに存在することを証明している。
この個体は、淡いベージュのレザーと深い艶を湛えたウッドが調和し、乗る者を静かに包み込む。ロールス・ロイスらしい威厳は保ちながら、乗る者を緊張させすぎない“私室のような親密さ”があった。
そして、いま中古市場で手に入るレイスは、ロールス・ロイスというブランドが本来持つ“距離”よりも、ずっと近い位置にある。至高の仕立てを、自分の意思で操る贅沢──その最短距離にレイスがいる。
ロールス・ロイスにいつか触れてみたいと思っている人にも、クルマを“機械”として深く味わいたい人にも、レイスは寄り添ってくれるはずだ。
大げさではなく、この一台は人生の風景を変える。景色が切り替わる手前、その境界にレイスは佇んでいる。

中園昌志 Masashi Nakazono
スペックや値段で優劣を決めるのではなく、ただ自分が面白いと思える車が好きで、日産エスカルゴから始まり、自分なりの愛車遍歴を重ねてきた。振り返ると、それぞれの車が、そのときの出来事や気持ちと結びついて記憶に残っている。新聞記者として文章と格闘し、ウェブ制作の現場でブランディングやマーケティングに向き合ってきた日々。そうした視点を活かしながら、ステータスや肩書きにとらわれず車を楽しむ仲間が増えていくきっかけを作りたい。そして、個性的な車たちとの出会いを、自分自身も楽しんでいきたい。























