北欧の航空機メーカーが手がけたサーブ900には、デザインにも走りにも哲学が宿っていた。丁寧に整備を重ねながら、12万kmを走り続けてきたこの一台に触れて、その思想の輪郭が、確かなかたちとなって伝わってきた。
INDEX
整っていることよりも
いま、自動車のデザインは“整って”いる。ラインは洗練され、プロポーションは均衡し、無駄がない。けれど、それが本当に魅力的なのかと、このサーブ900に乗ると思う。
一見して不格好とも思えるフロントウインドウの傾斜と、カクっと落ちるリアセクション。けれど、このデザインは「そうしたいから」ではなく、「そうあるべきだから」そうなった。
サーブは本来、戦闘機メーカーだ。空気力学を操り、人命を守る機体をつくってきた。その思想をそのまま、自動車製造部門にも持ち込んだ。だから、サーブの車はスタイルではなく構造から美しさを宿している。
風を切り、視界を確保し、衝撃から人を守る。それがこのフォルムの理由。これは流行ではない。合理性と倫理から生まれた、設計思想の造形なのだ。
北欧という思想のかたち
サーブの本拠地、スウェーデン。そこは厳しい冬と長い夜が続く国だ。視界を広く取る巨大なフロントガラスは、日照時間の少なさを補うため。大きなテールランプは、雪に覆われた白銀の道でも視認性を保つため。
そして、室内に広がるブルーのモケットシートとダッシュボードのレイアウト。人間中心に設計された、温かく包み込むような空間。今回試乗したこの個体も、そんな北欧デザインの哲学を色濃く残していた。
深いダークブルーのボディは、直射の下でわずかに藍の気配を帯びる。ブラックに近いけれど、どこか柔らかい。その佇まいは、押し出しの強さとは無縁だ。ただ、静かに立っている。その姿勢そのものが、このクルマの美意識を物語っている。
時間を超えて残った操舵感
キーを回すと、12万kmを超えたとは思えない滑らかなクランキング音。エンジンが目を覚ますと、低い回転域からしっかりとトルクが立ち上がる。
このサーブ900に搭載された2リッター直列4気筒ターボは、現代の基準で言えば控えめな出力だが、街中から中速域での力強さには、ターボの恩恵がしっかりと感じられる。
電動アシストなどないこの時代の油圧ステアリングは、現代車のように軽くはない。だが、路面と対話している感覚がある。手のひらから、タイヤの接地感がじわじわと伝わってくる。真っ直ぐ走るときでさえ、「操縦している」という実感がある。
そして、直進安定性の高さ。空力に優れたボディとFFレイアウト、前重心の設計が生むこの特性は、ロングドライブでこそ威力を発揮する。都市では手応えを、郊外では安定を。ひとつのクルマで、ふたつの表情が味わえる。
北欧らしさと戦闘機らしさ
深いブルーのシートに座り、頭上を見上げれば天井まで同系色。視界の下半分をブルーが支配し、上半分にはブラックのダッシュボードが広がる。この濃淡のある色使いが、室内に静かな緊張感と安堵をもたらしている。
シートに使われたモケット素材の手触りは、どこか北欧家具のファブリックを思わせる。高級感というより、温かみと実用性を備えた質感。派手ではないが、触れたときに感じる安心感がある。
インパネ周りは、戦闘機メーカーらしい合理性が色濃く反映された設計。スイッチ類はドライバー側に傾けて配置され、視線移動を最小限に抑える工夫が施されている。
サーブ自身も「コックピット発想のクルマづくり」を標榜しており、このインテリアには、航空機の計器配置に通じる明快さが感じられる。それらは、単なるデザインではなく、操縦という行為の一部として機能している。
走り続けてきた記録
整備記録簿を見て驚いた。このクルマには、1992年から2024年まで、30年以上にわたって記録が残っている。そして令和以降の整備も、サーブ専門店にて行われていることがわかる。
ブレーキパッド、ローター、ブッシュ、ランプ類、ドライブシャフトブーツまで。これまでのオーナーが、ただ所有するだけでなく、このクルマを走らせることに正面から向き合ってきたことが伝わってくる。
そして、その証拠のようにこのクルマは12万km超という距離を、途切れることなく、しっかりと走り続けてきた。 数字だけを見れば多走行だが、整備の質と一貫した記録が、それをむしろ価値として裏づけている。
古い車において、安心感とはすなわち履歴だ。車両としてのコンディションもさることながら、この「記録の履歴」が、なによりこの個体の価値を高めている。
好きかどうかだけ
サーブ900は、デザインも、操作感も、居住性も独特だ。けれど、それこそが魅力だと思える人にとっては、唯一無二の存在となる。
世の中の大半のクルマが、「性能と装備と価格のバランス」で選ばれていくなかで、このクルマは「好きかどうか」でしか選ばれない。けれど、それは逆に言えば、最初から正解が用意されていないということだ。
似たような年式のメルセデスやBMWよりも台数は少なく、部品調達も容易ではない。けれど、それでも乗り続けられる理由がある。むしろ、その困難すら愛せる人にとっての最適解であるとも言える。
自分で手を入れ、向き合い、理由をつくっていく。そんな付き合い方が許されるクルマ——このサーブ900はそんな車だ。
不器用なようでいて、筋が通っている。目立たないようでいて、強く印象に残る。きっと、このクルマの本当の魅力は、乗る時間のなかで少しずつ育っていくのだろう。
SPEC
サーブ900
- 年式
- 1992年
- 全長
- 4670mm
- 全幅
- 1690mm
- 全高
- 1410mm
- ホイールベース
- 2510mm
- 車重
- 1280kg
- パワートレイン
- 2リッター直列4気筒ターボ
- トランスミッション
- 4速AT
- エンジン最高出力
- 160ps/5500rpm
- エンジン最大トルク
- 250Nm/3000rpm
河野浩之 Hiroyuki Kono
18歳で免許を取ったその日から、好奇心と探究心のおもむくままに車を次々と乗り継いできた。あらゆる立場の車に乗ってきたからこそわかる、その奥深さ。どんな車にも、それを選んだ理由があり、「この1台のために頑張れる」と思える瞬間が確かにあった。車を心のサプリメントに──そんな思いを掲げ、RESENSEを創業。性能だけでは語り尽くせない、車という文化や歴史を紐解き、物語として未来へつなげていきたい。