- ベントレー / ミュルザンヌ(2015)
歴史を紐解く手がかり
ベントレー・ミュルザンヌに乗れば、ベントレーが何を考え、ミュルザンヌに何を託したかがわかる。他のモデルではなく、このミュルザンヌのみが静かに語ってくれるのだ。

ミュルザンヌのオリジン
フランスはサルト県。ル・マン市街地から南下すると「シルキュイ・ドゥ・ラ・サルト(=サルト・サーキット)」がある。
ル・マン24時間レースの舞台は1周13.629km。1990年にシケインが2つ設けられるまで、約6kmに及ぶストレートがあった。今でもここは「レ・ユノディエール」と呼ばれる。その先。右の直角コーナー。入り口の村の名前からとった「ミュルザンヌ・コーナー」がある。長いストレートからの直角コーナー。むろんアクシデントとは無縁ではなかった。
そんなコーナーの名前をとったモデルがこの記事の主役、ベントレー・ミュルザンヌだ。
それまでにル・マンで6勝をあげたならば、その名前を使っても文句はでないだろう。それくらいの栄誉なのである。
2009年8月、カリフォルニア州モントレーでベントレー・ミュルザンヌは披露された。英国クルーの本社で設計から組み立てまで全てが行われるこの車が日本で披露されたのは2010年3月のこと。全てを受注生産とし、3380万円からのプライスタグが掲げられた。
2016年にはフェイスリフトが施された。その際ミュルザンヌ・スピードと呼ばれるスポーツグレードとEWB(日本未導入)も加わった。
しかし2020年ミュルザンヌの生産終了が発表された。同時にOHVのV8エンジンの歴史にも幕が降りた。2代目フライングスパーがミュルザンヌの領域もカバーすることになったのだ。
ただならぬオーラのタネ
横に広がるメッシュグリルは磨き上げられ、キラキラと光っている。その脇には大きな丸目のヘッドライト。1950年代のベントレーSタイプからインスピレーションを得ている。確かに似ていると私は思う。
似ているのはむしろヘッドライトの脇からボディサイドに伸びる厚みのあるフェンダーかもしれない。こんなにギョロっと丸い目がついているのに、フェンダーのお陰かポップさは感じられず、荘厳さのほうが強く前に出るのだろうと思う。
つるんとリアのつなぎ目のないCピラーとフェンダー部分。職人たちが手作業でパネルの繋ぎ目をなだらかにしている。ただならぬオーラ、というと簡単だけれど、どこか不思議な空気感を纏っているのは、そういったディテールへの時間の掛け方の圧倒的な違いが理由なのだ。
インテリアは応接室そのものである。ウッド、レザー、金属。どこにもフェイクはない。緊張感と温かみが混ざり合う。ポヨンと跳ねるくらい肉厚なシート調整すると、意外にもスポーティなポジションまで許容してくれていることを知る。ぬっとりとなめらかな革が張られたステアリングを握り、京都の街を走らせた。
甘い6と4分の3リッター
小ぶりのアクセルペダルをそっと踏み込むだけで、6.75リッター、いやベントレー流に表現すれば6と4分の3リッターV8エンジンが大きなボディをやわらかく引っ張った。
タービン2機が加勢するこのエンジンは古典的なOHVだ。ベントレーとロールス・ロイスのバッジ・エンジニアリング時代、ベントレーS2(1959年)まで起源は遡る。
512psと1020Nmにのぼる豊かなパワーと、そこに確かにエンジンがうごめいていることを伝える音、そしてその回転フィールが、このミュルザンヌにぴったりと合っている。
しばらく走らせると英国銘柄の最上級モデル、という立場から想像するよりも車自体の反応がよいことに気づく。もちろん鋭敏、あるいは軽やかという表現とは異なる。少なくともハンドル操作に対して大きく遅れをとったり、ぶわぶわと車体が浮いた感じで終始落ち着かないといっただらしなさは一切ない。
だから急ごうと思えば急げる。ゆっくりと街を流すときには不快感がなく(むしろ至極快適)、しかしハイペースもきちんとこなす。両方のレベルが極めて高い。ベントレーの全てのモデルに共通する素養であると実感する。
後部座席に座ってみる。臀部が当たる部分が窪む、ピンと張ったレザーシートが程よく反発する。運転しているときにはあまり目にできなかったウッドパネルやレザーにうっとりする。広い足元や頭上、遮音性のしっかり効いた窓。外の世界から完全に閉ざされた移動にくつろぐ。
自らハンドルを握るとき同様、ロールス・ロイスの雲の上をゆくようなふわふわ感とは異なるけれど、十分に乗り心地はよく、むしろベントレーとロールス・ロイスの思想の違いをハンドルを握ることで読み解いてゆく楽しみがあると私は捉えた。
ミュルザンヌが語ること
繰り返しになるけれど、ベントレー・ミュルザンヌは2020年に生産が終わった。
フライングスパーとベンテイガがその代わりのポジションを担当することになる。
現行フライングスパーと現行ベンテイガは、1世代前(あるいはマイナーチェンジ前)よりも一層洗練されており、ベントレーが掲げるスポーティネスとコンフォート性能を世界最高レベルで両立させていることは確かだ。
けれど、単独の存在意義をミュルザンヌと照らし合わせると、やはりそこには溝がある。
10年前、ベントレーはミュルザンヌという特別モデルに何を託し、なぜ連綿と続いてきたパワートレインを鼻先に押し込んだのか。
そしてなぜル・マン24時間のコースからモデル名をもらってきたのか。
いささか懐古趣味と言われればそこまでかもしれないが、いや、今しか乗ることが出来ない車なのだと主張したい。濃密な時間であった。